芸妓 佳那恵さん

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芸妓 佳那恵さん

少女歌舞伎で叩き込まれた役者魂で
岐阜花柳界の灯を守り続ける

曇りガラスを通して射し込む午後の陽が明るい岐阜検番の稽古場。2人の芸妓(げいぎ)が着物の袖をひるがえしながら、踊りを習っている。「もっとそこで体をそらして」。かたわらにピンと背を伸ばして正座している佳那恵(かなえ)姐さんの声が飛ぶ。目は優しく表情は穏やかだが、掛ける声は凛と響く。

岐阜芸妓組合に所属する芸妓は34人。佳那恵さんはその組合長だ。戦後、岐阜市の芸妓が最も多かったのは昭和初期。700人を超えていたが、時代の流れの中で減り続けた。平成4年、岐阜の花柳界の灯を消すなと、経済界などの支援で後援会ができて、30人台で踏み止まった。「岐阜は全国でもよく頑張っている方。皆さんの応援のお陰です」と佳那恵さん。

佳那恵さん(本名・熊沢順子)は、昭和11年名古屋で生まれた。戦争で父を亡くし、3人きょうだいの長女として母の手で育てられる。貿易商の家に生まれた母は芸事が好きで、戦後すぐ小学校6年生の佳那恵さんを、豊川にあった市川少女歌舞伎に入れた。芸名は市川小牡丹。今も踊りの舞台では、この名を使う。「不器用な役者でしたけど、幕が上がって拍手を浴びる時の晴れがましい気持ちは忘れられませんね」。25歳で退団して、東京・丸の内の高級料亭常磐屋に奉公に出、戦後の政財界の重鎮を目の当たりにした。

岐阜で芸妓をしていた母を頼って、32歳の時「鼎」の源氏名で岐阜の花柳界デビュー。その後「佳那恵」に改名した。女手一つで3人の子どもを育てた母に鍛えられ、たちまち売れっ子になった。少女歌舞伎で身につけた芸と人をそらさない話術で、一晩にいくつものお座敷が掛かった。「芸妓のお仕事は、私にぴったり。色々なお客さんから貴重な勉強をさせていただきました」

母は小児結核を患った佳那恵さんをお不動さんに裸足参りして治して以来、娘の行く末を案じ続けた。「ねえちゃん、あんたは一人では生きていけんよ」が口ぐせだった。平成17年、95歳で亡くなる。「母は私のために生きてくれました。でも、私も母のために生きたから、泣きはしませんよ」。5月、お客さんから誘われて岐阜交響楽団のウイーン公演に伴ってヨーロッパへ。ホテルのパーティーで三味線を弾くのが待ち遠しい。

Photo

―人生を支える宝もの―

市川少女歌舞伎の仲間

市川少女歌舞伎の仲間は、今でも同窓会を開いて旧交を温め合う。劇団の幹部だった佳那恵さんは、旅興行のなかで人生のすべてを学んだ。喜びも悲しみも出会いも別離も。

Profile

佳那恵
昭和11年名古屋市生まれ。本名熊沢順子。12歳で豊川市の市川少女歌舞伎に入団。退団後、東京などの高級料亭に奉公した後、昭和43年岐阜の花柳界に入る。平成4年岐阜芸妓組合組合長に就任。花柳界の振興と後進の育成に努力している。

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