紋付や留袖などに入っている家紋は、
日本独特の美学の産物。
伝統的な手仕事を継承する上絵師によって描かれてきた。
金華山の西麓に岐阜城を見上げるように広がっている古い街並。小さな木の看板を確かめ格子戸を開けると、自転車が置かれた玄関には白い犬が寝そべっている。
「ケータイのCM犬にそっくりでしょ」
玄関脇の部屋のガラス戸が開いて、田中啓一さん(60)が笑顔を見せる。坪庭が切ってある8畳ほどの和室が工房。飴色をした古い箪笥の前に使い込まれた作業机が2脚。机の上には絵筆や絵皿、分廻し、ガラス棒などが背丈を揃えて並んでいる。傍らに置かれた箱火鉢のガスがジージー燃えて、五徳の上のフラスコの湯が盛んに沸騰中。
部屋の一角に衣紋掛けに掛けた男の子の祝着が2着吊るしてある。背中の真ん中に描かれた家紋が目を引く。
「『丸に鷹の羽』と『五七の桐』ですね。呉服屋さんからの仕事です」
紋章上絵師とは伝統的な手仕事によって、着物などに家紋を入れる職人。紋屋などとも呼ぶ。平安期の貴族社会に起源があるといわれ、江戸期には服飾デザインの一職種として脚光を浴びた。
着物文化の後退とともに紋屋は激減。今では県内の上絵師は10人に満たない。上絵の技法も時代の波をかぶっている。本来の手描きが減ってプリントが増え、下絵もコンピューターで描くようになってきた。そんな中、伝統手法にこだわる紋屋も健在。田中さんもその1人だ。
紋は入れ方によって4種類ほど。決められた紋場(石持)に入れる「入れ紋」、色留袖などの色を抜いて入れる「抜き紋」、別の色で摺り込む「摺り込み紋」、糸で刺繍する「縫い紋」だ。
「入れ紋」は喪服などに用いる代表的な紋入れの方法。工程はこうだ。①紋洗い:反物の石持を薬品で洗う ②摺込み:石持に紋型を置き紋の形に染料を摺り込む ③上絵:上絵筆で紋を上絵する ④仕上げ:色の調整などで完成。
上絵師の腕の見せ所は、100円硬貨ほどの円内に限られている。熟練した指先の技術がすべて。並外れた集中力が求められる。
「華やかな仕事ではないけど、小さな紋にも必ず上絵師の個性が出ます。ぼくの目指している紋はカッコよさ」
田中さんは東京の大学を卒業して、東京の広告代理店に就職した。27歳の時、母の病気で岐阜に戻り、家業だった上絵師となる。父の仕事を見て技術を覚えた。父の描いた上絵をなぞることから始まり、少し上達すると揚羽蝶を描かされた。揚羽蝶は道具を使わずに絵筆1本で線描きしなければならないから、勉強にはもってこい。
「何百羽と描きましたが、なかなか親父は誉めてくれなかった。揚羽蝶でこの仕事の奥の深さを知りました」
今、仕事は最盛期の4分の1程度。男の紋付が廃れたので、自分の家の家紋を知らない人も多い。それでも何とか盛り返せないかと模索する。紋章を使ったTシャツ、シール、プレートなどを考案し、ネットで販売するなどの工夫も重ねる。紋ちゃんのハンドルネームで自分のブログも持っている。上絵に対する強い思いと、深い造詣が伝わってくる内容だ。
「いい仕事ができた時の充実感は、今も変わりません。もちろん自己満足ですけどね」
跡取りはいないが、70歳まではがんばろう。1日の仕事が終ると、好きなお酒を傾けながらそんなことを思う。
Photo
- 上絵筆、分廻しなどを使って上絵を描く田中さん。1反の反物に紋を入れるのに1時間半はかかる。
- 作業工程を紙を使って見せてもらった
- フラスコの湯から立ち上る蒸気で石持の部分を蒸す。こうすると染料を定着させることができる
千太屋紋章工芸
- 所在地:岐阜市下茶屋町31番地
- 電 話:058-262-5008
- ホームページ:「家紋の広場」